日々精進時々堕落

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技術と手法における神聖度と仕事の関係 2006.05.14 Sunday
ちょっとまた一つ考えと(屁)理屈が頭の中で固定化されてきたので、書いておくことにします。
どうもこういうときに書いておかないと次に書こうと思っても何を書きたかったのかが
上手く書けないんですよね。人間って不便です。

コンピュータを使う人は
『コンピュータは便利だが頭が非常に悪い。しかし人間は頭が良いが非常に不便だ』
ということが良く分かるかもしれません。

ちなみに、考えといっても、自分が書くのは大抵『当たり前のこと』です。
でもそれを文章化してまとめとくのが自分にとって大事なのです。



今読んでいる本の中の一つに『クビキリサイクル―青色サヴァンと戯言遣い』という小説があります。
著者は西尾維新という最近すこぶる評判の高い作家で、何かデスノートの小説も
書くことが最近決まったようですが、人から進められて貸してもらったので読んでます。

それは置いておいて、まだ6分の1程度しか読めてないのですが、
個性的で『天才』な登場人物の中で画家が一人います。
その画家が以下のようなことを言います。

『写真は元々、絵から生まれたものだ。あれは外界を正確に写しとるために考案された技術の一つだ』

なるほど、今でこそ写真と絵画は違うもののように考えられてしまうが、
根本を考えれば写真とは絵画の手法の一つで、ある種のリアリティを追求した形の一つだ。
ようは筆の変わりに光とレンズとフィルムを利用して絵を書くわけだ。

もちろん物語の中でこの部分は大して本質にあまり関係してこないのだろうが、
非常に面白い観点ではある。
さて、ここで一つの疑問が上がる。
『なぜ絵画と写真はこれほどまでに異なった印象を持ってしまったのか』

いや、それはもちろん、その特徴や絵画の歴史などが深く関係しているのだが、
ここでは『技術、手法と神聖度』について指摘していこうと思う。



前のエントリでもちょっと上げたかもしれないが、今読んでいる他の本の一つに
物語の体操』という本があります。
その冒頭で著者はこう言います。

『この国に限っても文学は衰退して、などと戦後一貫して言われ続けてきたにも拘わらず未だ文学者たちがそれなりに社会的な地位を維持し続けることができたのも、つまりは小説を書くという行為が一種の<秘儀>として神聖視されているからだという側面があります。』

つまり、ある程度の技術が必要とされる行動は、その技術がない人から
『神聖視』されるということです。上の画家の例にしても同じです。
もちろんプロのカメラマンという職種もあってかなりの技術を必要としますが、
カメラは素人が撮ってもそれなりに見えるという点では、絵画に比べて神聖度は低い気がします。
まぁ最近は『デザイナー』という画家なのかどうなのか抽象化されてしまった職種もありますが
それはそれで良いと思います。

ここで単純に法則をまとめてみましょう。
1.一般の人ができないと思えるような技術が必要なほど神聖度は高くなる
2.神聖度が高いほど、社会的なアイデンティティが強く存在する。
3.大した技術じゃなくても一般に分かりにくく、魅力があれば神聖度は上がる。

非常に簡単ですね。
また、上に挙げた『クビキリサイクル』に出てくる画家はこうも言う。
『見るものを選ぶようなものを、私は芸術とは呼ばないの』
正直この台詞だけで、この著者がかなり頭が良いと自分は思うし尊敬できるわけなのだが、
これからもう一つ法則が言えるのではないか

4.技術とは複雑又は大変なものを一般にも理解できるところまで現象を落とし込むための手法である

もちろん限られた人間にしか理解されないことで金額的な価値が上がることは多い。
しかしそれはその技術の副産物的なもので、技術の本当の役割ではないのではないかと自分は思う。



さて、自分は未だアマチュアであるが、おそらく自分が最初にプロとして
役割を果たすことになるのは、ほぼ間違いなくプログラマという職種である。

プログラマの『技術』とは当たり前だが、コンピュータの知識を基盤とした
『プログラミングの技術』であり、仕事レベルになるとさらに
『スケジュール管理の技術』『コミュニケーションの技術』『体調管理の技術』
等などが要求されるわけだが、まぁ少なくとも必須で神聖視されるのは『プログラミングの技術』だ。

自分の周りのコンピュータ使わない人にプログラム書いてるなんていうと、必然的に
『すごいな』という視線か『頭おかしい人だな』という視線のどちらかが向けられます。
正直自分にとっては何がすごいのかさっぱり分かりませし、自分に言わせれば、
法律知ってるとか、経済に詳しいとか、英語がペラペラ喋れるとかの方が
よっぽど神なんですが、まぁ気持ちは分かります。ぁ、頭おかしいのは認めます。

ちょっと脱線しますが、自分がプログラム勉強するときの基盤となる考えがあります。
それは『世界で何百万人というプログラマがいるのに日本でちゃんと教育受けてきた人間が分からないわけねぇじゃん』
という考えです。そんなわけで自分はプログラムに行き詰っても
『分からないのは自分の勉強が足らないからで、知らないアルゴリズムがあるからだ』
という考えに行き着きます。つまり、勉強すりゃぁ誰だってできるってのが自分の根本です。
もちろんそこには『プログラミングが好きで続けられる』という条件が入るのですが。

話を戻します。世間一般にでているプログラミングの勉強のための本を見てみましょう。
『猫でも分かる○○』だとか『猿でも分かる○○』、『絶対分かる○○』『30日でマスターできる○○』
だとかいう本が山のようにあふれかえっています。
実はプログラマの神聖度が未だある程度高いからこそこういう本が売れるわけですね。
日本では結構プログラマの扱いが酷いにもかかわらず、プログラマになりたい人間は意外と沢山います。
それは画家ほどではないにしろ、プログラミングという技術が複雑で、
一般化されるほどにまで落とされていないからなんですよね。
自分は『誰だってできる』と考え、本は『猫だってわからぁ』と豪語しているのに、
依然とテレビを使うように誰でも使えないのがプログラミングという技術です。

なるほど、ここにはかなりの矛盾が生まれますな。
・プログラマは『プログラミングなんか猫にだってできらぁ』と思っている
・ところが実はプログラミングは難しい。


しかしこの矛盾は非常に大事なんですね。
なんでかってそりゃ、
1.プログラマってなんだかすごそうだからなってみたい人がいる(神聖視する下部組織)
2.プログラミングって簡単だなんだと思わせる。
3.実はプログラミングは難しくて中々厳しい
4.そのおかげでプログラミングの出来る人間がある種神聖化し、社会的な価値が保たれる(それで飯が食える)
5.神聖度があがるので1の人が増える→有効な無限ループ

という流れになるんですねこれが。上の小説家の場合と同じです。
ほんとにプログラミングが誰にでもできるほど簡単になってしまったら、
プログラマはおまんま食い上げなんですねこれが。

ということで、プログラマを本気で仕事にしようとしてる皆さんは
飯を食っていけるように声を上げて大きく叫びましょう!


プログラミングってむちゃくちゃ難しいけど

猫でもわかるんだぜ!!



ん?なんか違うっすか・・・?
| 考察 | comments(2) | - | Dr.Garugari |
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Comment








どの職業でもそうだと思うけど、身体的・精神的な制限が無い限り、どの職でもどの行動でも人間って出来るもんだと思いますよ。

強いて言えば、誰でもマラソンは出来るけどマラソン選手になるのは難しくて、さらにプロのマラソンランナーになるのは一握りだというヒエラルキー的な願望だからじゃないですかね。

そんな自分も、『運転って誰でもできるよ』と『初心者に運転は難しい』のハザマでもだえてますよ…orz
posted by YAG | 2006/05/14 1:25 PM |
>身体的・精神的な制限が無い限り、
マラソンの例みたく肉体的な例の場合はまだいいけど、
精神的な制限ってのは自分の限界がわかりにくいのが結構問題っすね。

免許取得は頑張ってください。。。
posted by Garugari | 2006/05/14 9:56 PM |
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